
悲劇の王妃 マリー・アントワネットの光と影
The Light and Shadow of Marie Antoinette, a Tragic Queen
エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン, Public domain, via Wikimedia Commons経由
絢爛豪華なヴェルサイユ宮殿を舞台に、その美貌と華やかなファッションで人々を魅了した王妃がいました。しかし、彼女を待ち受けていたのは、フランス革命という時代の荒波と、悲劇的な結末でした。一体、彼女の人生にはどのような光と影が交錯していたのでしょうか?今回は、激動の時代を生きた悲劇の王妃、マリー・アントワネットの生涯を辿ります。

マリー・アントワネット
(1755~1793)
中世来、権勢を誇ったヨーロッパ随一の名家、ハプスブルク家に出自を持ち、14歳の若さでフランスブルボン王朝に嫁いだフランス王妃。1789年フランス革命により、王政が廃止となり、国王ルイ16世に続き、1793年に37歳の若さでギロチン台に送られ生涯を閉じた悲劇の王妃。
幼少期のマリー・アントワネット ジャン=エティエンヌ・リオタール, Public domain, via Wikimedia Commons経由
ハプスブルク家とフランス王家の政略結婚
当時、フランスとオーストリア(神聖ローマ帝国)は、急激に台頭してきたプロイセンの脅威から伝統的敵対関係を放棄し、同盟関係を望んでいました。オーストリアの女帝マリア・テレジアはハプスブルク家伝統の政略結婚を画策し、フランス国王ルイ15世の孫、ルイ・オーギュスト(のちのルイ16世)に自身の娘であるマリー・アントワネットを嫁がせたのです。

エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン, Public domain, via Wikimedia Commons経由
社交界の華として、ファッションリーダーでもあった彼女は豪奢な生活を謳歌していた一方で、子供が生まれると、当時では珍しく自身で教育をし、愛情をもって育てたという家庭的な一面も持っていたといわれています。 なお、彼女の「パンがなければブリオッシュ(お菓子)を食べればいいじゃない?」と百姓に言い放ったという有名なエピソードは、近年では彼女の言葉ではないというのが通説になっています。

エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン、パブリックドメイン、ウィキメディア・コモンズ経由

ヴェルサイユを彩った王妃の審美眼
家具にも非常に興味を持っていたといわれており、ドイツの家具職人を多く抱え貴族に広めています。自身の紋章を誂えた調度品も多く残されています。パール、ダイヤモンド、漆工芸品を好んだとされています。
Photo: Myrabella / Wikimedia Commons経由
時代の波に翻弄されながらも貫いた王妃の苦悩と愛
高貴な家柄と美貌に恵まれたものの、歴史的な転換期と夫やその寵姫との関係や伝統的な因習に悩み、それと闘いながらも子供への愛や自分の感性を貫いて、最後は若くして悲劇的な死を迎えました。そんな生き方は今も衰えない異彩を放っています。

1789年10月6日(フランス革命時)、ヴェルサイユ宮殿にてルイ16世とマリー・アントワネットとその家族。
ジュラ・ベンチュル、CC BY-SA 4.0、ウィキメディア・コモンズ経由
マリー・アントワネット。高貴な血筋、類まれなる美貌、そして時代の波に翻弄されながらも懸命に生きたその姿は、今もなお私たちに様々な感情を抱かせます。フランス王妃という華やかな表舞台の裏で、彼女は一人の女性として、妻として、母として、喜びや苦悩を抱え生きていました。革命という歴史の大きなうねりの中で、その短い生涯を閉じた悲劇の王妃。しかし、彼女がその短い人生で示した強さ、愛情、そして何よりも自分自身の感性を貫こうとした生き方は、時代を超えて私たちの心に深く刻まれています。彼女の生涯は、私たちに歴史の無情さと、一人の人間の尊厳について改めて考えさせてくれるのではないでしょうか。

悲劇の王妃 マリー・アントワネットの光と影
The Light and Shadow of Marie Antoinette, a Tragic Queen
エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン, Public domain, via Wikimedia Commons経由